気分変調症と過敏性腸症候群などを患う精神疾患者の日常ブログ
 

 

 
通勤は電車です。

電車をホームで待っている時
ふらっと想像してしまう。
もし、あの茶色の石たちの中に
自分が埋もれてしまったら、そこで意識は飛んでいくのかな。

最近、気付いたけど
それは割りと危ない思考なのかもしれない。
もしふらりとそこへ落ちてしまったら
どうしよう。

別に、自殺願望があるわけではない。
ただ、考えてしまう、思ってしまう。

自分をつなぎとめているものは、きっと他人のことだけど。
細い糸がちぎれてしまったら
そのときわたしはしんでしまうのかな。 
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いくら周りが変わっても自分は変わらない。
と、思っていました。

けどそれは、私には無理なことです。
確かに、自分が自分である事は変わらない。
しかし影響を受けないほうがおかしいのです。
それは仕方のない事です。

隣で騒音を出されてあなたは
その騒音に良い意味ではない関心をしめさずに
何食わぬ顔で自分の作業を続けられますか。
私には無理です。その騒音の主を目に留めてしまいます。

雑食であるべきです。

自分が目指す場所はいつも自分にとって魅力的でなければならない。
そうじゃないならいきたいとも思えない。

じゃあ、私は今何か変わったのか?と言われますと全くわかりません。
前のことは覚えていません。ただ作品が残っています。
それを見るかぎりでは変わったようです。

どんなに素晴らしいシェフがあなたに料理を出しても
あなたが美味しいと感じることができないのなら
それはあなたの食べるべき料理ではありません。

しなければならない事はしなければなりません。
しかしそれに惹かれないのなら、手を抜いてもいいんじゃないんですか。

「こうするべきだ」という固定概念が邪魔であるように見えて仕方有りません。
努力推進機構。
やってる事が努力になるかどうかなんてどうでもいい。
そう思いました。

最近、形に憬れを持ちません。
「いろんなことが出来る人」に憬れをふと持っていた時もありましたが
今はそういう能力はどうでもいい。

惹かれることをしたいです。
だれでもなく、自分が惹かれる事を見ていきたい、なあ。

それは作品じゃなくてもいい。
例えば本を開いた時、例えば真っ暗な部屋の黒の度合い
そういうものを見ていけたらそれでいい。

私は、ここ最近変な勘違いをしていました。
意識が作品にだけ向かっていました。
そんな結果論はどうでも良かったのです。

絵も本を開くことも同等なのです。
ただふらりと描くただそれだけだったのに
絵を意識しすぎてだれていたように思います。

ただ誰に訴えるでもなく、そこに存在するのです。
部屋の暗闇は誰が作ったというのでしょう。

そういうものを操作すると言うことはとても素敵だと思います。
でも、私には向いていない。
好きだけど、自分がやりたいかって言われたら、そうじゃない。

惹かれないことはしない。当たり前ですかね。
温度に狂ってしまいそうでした。

もっとらしく生きよう。ああ、なんと合わない…。
自分は誰なのかなんてどうでもよく。
全てのものはなんでもないのだから。と、思いました。 

 

 

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