気分変調症と過敏性腸症候群などを患う精神疾患者の日常ブログ
 

 

 
学校の先生にお奨めの本を聞いた。
何故なら先生の絵が好きだったからだ。
この絵を描く先生は何を読んでいたのか
気にならないわけはない。

そしたら、村上春樹の「レキシントンの幽霊」を貸してくれた。
私に読んで欲しい、と。
嬉しかった、よんだ、面白かった。
まるで、語られているような文章。
そう思うくらい現実的なのにどこか非現実的。
なぜ、どうして、そんなこと沢山思うけど
あえてきかない。重要じゃない。ただ、そこにあるだけ、それが事実。
そういうことだとおもった。

本を読んでいくたびに本への感情がコロコロと形を変える。

今じゃ人と話すよりも本を読んでいる方が楽しく思えて来る。
本には余計な演技はない。余計な声もない。ただ静かにそこにある。
誰も何も急かしたりしない。

私は普段誰かに何か急かされたりしていると思っているのか?
疑問。思ってない、はずなのだが。


そういえば誰かは擬音で表現した
けれど私はきっと擬音よりも黒が増すと思う 
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今日はリビングで一人で夕飯を食べた。
家族は全員居ないのである。

私はいつも自室で食べる。
それは特に理由もなくただなんとなくだった。
だが今日はリビングで食べた。

何故だろう。考えてみた。そして気付く。
私は家族と会話をしたくなかったのだ!
家族が嫌いだとか好きだとか、どうでもよく、
私は彼らとなぜか会話をしたくないということに気付いた。

(何故の部分を考えることはしなかった。
考えたくないと感じた。理由はしらない。)

その部屋は時計の音しかしなかった。
かち、かち、かち、かち、その時は規則正しい音なんて思わなかったが
今考えてみればきっと規則正しかったと思う。
人間は音がしないと気が狂うという。私も狂うだろうかと心配になった。
落ち着きと焦りが混ざった感情が生まれた。
それを抱えながら白米と味噌汁とちくわを食べた。紅茶も飲んだ。

この家には今私ひとりしかいない!
なんと安心できるのだろう。私は今羽を休めている気分だ。
私はおびえているのだ。いつ母がその扉を開けて私に言葉の洪水を浴びせるのかと。
母はいつも突然戸をあけ、笑い出す、もうそれは恐怖なのだ。
私は肉声を聞きたくないのだ。
だからイヤホンをしているのに返事をするまで話しかけてくるのだ。恐怖。

別に母だけじゃない
肉声は嫌いだ 楽しそうな声 すがる声 全部いやだ!
どちらも場面が思い出される。絶望! それは聞こえてくる。
けれど聞きたいと思う肉声だってないわけじゃない。

もしかして、会話がしたくないんじゃなくて
私は肉声を聞きたくないのかもしれない。
会話も怖いけど肉声とはまた違った怖さ。逆も叱り。

皮肉だ、一人じゃ生きられないのに。 

 

 

 

 
例えばこぼした紅茶をふく布巾を出し惜しみすること。
時間がずっとたたなければいいのに。
けれどそしたらこぼした紅茶はいつまでも乾かない。

思うままにつらつらと文章を打ったとして
それは紛れもない自分なのは確かなのだけれど
頭がからっぽなのに積もり行く言葉たちをみていると
何故? どうして? と思う。
どういうことなのだろう。
無から有は存在し得ないのに。
私の頭が空っぽの感覚は偽者なのだろうか。
けれどないものはないし。

それとも打つ瞬間に有を生んでいるのなら
まあ納得いく。
出力するその瞬間まで私は空っぽなのかもしれないと思った。
出力に生かされている。

いいやこれは嘘だな。なぜかは分からないけれどこの直感は外れないだろう。
なぜなら自分自身のことだからだ。

いいやそれは理由にならない。
わからないよ!
わかる必要がないから? 必要って何?
何と聞くもの全てわかってる。嘘だ!
眩んでいる。それは本物じゃない。きっと。 

 

 

 

 
梶井基次郎さんの「檸檬」と
星新一さんの「午後の恐竜」を読了しました。
面白かったです。
せっかく読んだのですから感想を書きました。
もし興味を持っていただけたのなら是非こちらで。
赤い吹き出しがついている本には感想を書きました。

最近読書をたしなむようになってきました。
きっかけはなんだったか忘れました。気まぐれでしょう。
同時に読書を全くしない自分というのが恥ずかしくなってきたのです。
そして見識を広めようと思った次第でございます。
読書の前に新聞でも目を通せという話ですが
まず興味を持ったのが読書の方だったので読書を始めました。

まず最初に言うと私は読書が嫌いです。
面倒なのもありますが
読みきっていないときの「用事を済ませていない感覚」が
どうにも苦手でたまらなかったのです。
次に酔うのです。
読んでいると具合が悪くなってきてどうしようもないのです
それは慣れていないからで、最近少しずつ克服しています。

読書は良いものだと人々はいいますが
私にとっては嫉妬の対象でしかない。
作品を鑑賞することよりも作り上げたいと思っていれば
当然の感情だとは思います。
自分が素晴らしいと思えば思うほど
うらめしく、嫉妬は増すばかりです。

しかしどれも少しずつそれがたまらないといった具合になってきているのです。
私もいつか読書が好きになれるでしょうか。
次は先生に薦められた本を読む予定です。
図書館にあると良いなあ。 

 

 

 

 
漫画を描こうと思いました。
さっぱりです。

絵を描こうと思いました。
さっぱりです。

まったくもってさっぱりのくせに
私の頭はもやもやしている。

物には沢山の名称があるけれど
それは区別する為の
うーん
名前があると便利だよね
便利だからつけるのか
それが特別だからつけるのか
私は後者が好きだなあ

と曲名を見ながらぼーっと思った。 

 

 

 

 
ライブのチケットが当たりました~。
やったやった。
早速振り込んできました。あとはチケットを受け取るだけ!

3つのバンドグループが来るんですが
ひとつは知らなかったけど二つは大好きなバンドさんなので
とても楽しみです。

実はライブには行ったことがありません。
今回は勿論そのアーティストさんが好きなのもあるけれど
自分の見識を広められたら良いな、と思っている。
場所も近場だし、初めてには丁度良いかなと思います。

そもそも思えば今まで、音楽というものに全く触れてきませんでした。
私が色々な事を始めたのは自分の周りの人たちのおかげと思います。
この場を借りてありがとう。
そう思えば、私の周りの人たちは沢山素晴らしいものを持っている。
それを魅力に思うかどうかは人それぞれなのは当たり前だけれど

私も人に何か与えられる人だったらなー、良かったな~。
けれど何か与える絵が描きたいわけでは、ないのだよな。

私の完成はいつになるのだろう?
もしかしたら完成しないまま死ぬかもしれない。

よく考えすぎだといわれるけれど何も考えずに死ぬのは嫌だ!
怖い、まだ気付けていないことが沢山あるのに
神経衰弱のゲームをしているとき裏向きのカードの存在自体に気付けない
今の生活は表向きしかないのだ
これは認識の見えない壁の話と同義だ

その向こう側へいけたらどんなに良いだろう。
私は行きたい、一人で構わないから 

 

 

 

 
自動車教習所を私の地元では車校といいます。
なにやら方言だそうです。

車校にいきはじめました。
まだ車には乗ったことありませんが近々乗る予定です。
勿論今までに車の運転席に座ったことなどありません。
緊張…。

けれども車校の先生は優しい方ばかりで安心しました。
気持ちよく学べそうです…たぶん。

車に乗っている人は全員テストをクリアしていると思うと
なんかすげえなと思うことがよくあります。

今日、模擬運転で模型?に乗りましたが
操作方法、ごちゃごちゃになります
上手くいく気がしない~!

がんばります。 

 

 

 

 
ああ、色々と考え付いていたことを書いていたけれど
全てどうでもよくなって、バックスペースキー。

考え事は考えるべき事と、考えなくて良いことを
選択するべきだと言うけれど
全部どうでもいい。

どうでもいいことに対して投げやりな面があると指摘されたが
全てどうでもいいのだから
私自体が投げやりなのだろう。

【投げやり】物事をいいかげんに行うこと。成り行きまかせにすること。

そう、何が起きても成り行きのままに。気が向いたら動いたら良い。
もっと真剣に?
その事象が真剣にならせないならば、
自分がそう思えないのなら、「その程度」なのだろう。
それだけ

だって、何事にも誠実に真剣になる必要なんてあるでしょうか?
それを選択しろという話しでしょうが、なかったららない。
あるかないかそれだけの話。

それに対して気に食わない面があるのなら私に興味を持ちすぎなのだ。
それに対して私が何か思ったら相手に興味を持ちすぎなのだ。


何を考えていたか思い出した。
人が変わるときは「悔しい」という感情があると思う。
私はめったに悔しいという感情を持った覚えはない。
負けたと感じてもそれが悔しいとは思えないのだ。
理にかなっている、だとか事実として他人事のように受け止めるだけ。
その部分が多いからこんな風に無気力なのだと思う。
けれどそれさえ悔しいとは思えないのだ。
別に良いかなと思っているから別に良いのだと思う。

悔しいと思わないなら本物じゃなかったんだと思う。
別のところで本物だったのだろうな。 

 

 

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